20世紀クロスワード 解説裏話

解説裏話 その2解説裏話 その3解説裏話 その4解説裏話 その5

「20世紀クロスワード」の解説をお願いした松坂史生さんが、「解説の裏話」を書いてくれました。爆発した解説で割愛されてしまった部分、苦労話等々を、どうぞお楽しみください。
その前に、松坂史生さんをちょっとご紹介。
1956年東京都生まれ。創刊号のころからのニコリ読者。雑学にくわしく、文章表現や言葉にうるさくて、お仕事もそんな関係のことをしている方です。
「20世紀クロスワード」の裏面の解説を書かせていただいた松坂史生です。裏話を少し述べたいと思います。ご感想をいただければ幸いです。

本論に入る前に、解説で書きたいことを書かせていただいたうえに、ホームページでさらに発言させていただくことに、感謝の意を表したいと思います。

好きなことを書いていたら…。

最初に編集部よりこの話があったとき、「単なる辞書的な解説でなく、事件の背景や時代の流れがわかるように。おもしろいエピソードもほしい」とのことでしたので、「言いたいことを書いてもよいのなら」ということで引き受けました。

そのとき念頭にあったのは、「日本国憲法」(ヨコ447)のいわゆる「芦田修正」についてです。常々、これは「負け惜しみ修正」だと思っていたのですが、そうした指摘はどんな本にも出ていないようです。それで、これを公にして専門家のご意見を伺いたいと思っていたのです。この件についてはまだ反応がないようなので、ここでもう一度強調しておきます。

もう一つ書きたかったのは、コスタリカ(タテ492)の憲法のことです。日本国憲法を大局的に考えるためにぜひ知っておくべきことなのに、ほとんど紹介されていないからです。私も正確には知らなかったので色々と調べてみたのですが、日本の憲法や世界の憲法を論じた一般書には詳しく書かれておらず、苦労しました。中学校の教科書に載せるべき重要度のものだと思うのですが。なお、執筆当時はなかったのですが、現在はコスタリカ政府観光局日本事務所のホームページができていて、そのトップページには「世界で唯一の非武装中立国」と記されています。

とにかく、読者の方に問題を提起していきたいと考えました。表面的な話をするのではなく、なるべく根源的な話、事象の原因をさぐったり、理由を考えたりできるように心がけました。また、定説への疑問を投げかけるように努めました。

たとえば原子爆弾(ヨコ426)については、ドイツ人がつくったとか、日本に投下されたのは人種的な偏見も影響しているとか、小倉に落とすはずが天気が悪かったので長崎に変えた(それも帰りの燃料がなくなってきたのであわてて落とした)といったエピソードはやめて、基本的な問題を考えてみたのです。

以上のように書きたいことを書いていくと、分量がどんどん増えていきました。それとは別に、作者や編集部より補足してほしいと依頼されたことや、補足しないと時代背景がわからないものがあるし、固い話ばかりでなく面白いエピソードも紹介したいし、ということで、分量が爆発してしまいました。活字を小さくしてもらったのですが、それでも大量に削らなくてはいけませんでした。当初は、すべてのキーワードに解説をつけようという計画だったのですが、早々に断念することになりました。

心ならずもけずったものを、ここでいくつか紹介したいと思います。

ヨコ18 ヤハタ

富国強兵政策を推進する明治政府にとって、鉄鋼を自給することはきわめて重要な課題であった。1873年に釜石に官営製鉄所を設立したが生産失敗を繰り返した。これを借り受けた田中長兵衛がなんとか生産に成功し1877年に民間に払い下げをうけるが、この田中製鉄所の生産量は国内の需要を満たすには小さかった。そこで、八幡に官営製鉄所を建設することになった。ドイツ人の技師を招き、機械もドイツから輸入し、4年の歳月と1900万円あまりの巨費を投じて1901年に開業にこぎつける。鉄鋼の生産はその後もなかなか順調には進まなかったが、1910年ごろにはなんとか軌道に乗り、日本の産業革命を支えることになる。なお、八幡の地が選ばれたのは、筑豊炭田を控え、良港をもつだけでなく、鉄鉱石の輸入先である中国(大冶鉱山)に近いという点にあった。

ヨコ27 ライト兄弟(最後の部分に)

二人が学者たちや大金持ちたちに先んじて、初飛行に成功したのは、先人の業績を学びとともに実験を繰り返した地道な努力と、自転車屋として培った技術と器用さがあったからだと思われる。決め手のなったのは「ねじり翼」の発明であり、これは現在のフラップの働きをするもので、これによって操縦の自由度が格段にあがったのである。

ヨコ51 サイヤング

サイ・ヤングは、1867年オハイオ生まれ。1890年~1911年まで22年間の大リーグ生活で、通算7356イニング、511勝(316敗)、750完投という現在も破られない大記録を達成している。1901年には、ボストン・レッドソックスのエースとして、第1回のワールドシリーズ優勝に貢献している。なお、サイというのはサイクロンを略したもので、速球の速さからつけられた通称である。勝ち星歴代2位の剛腕ウォルター・ジョンソンが416勝だから、彼の記録はとびぬけていて、彼が大リーグ史上最高の投手だということに異義をはさむ者はないようだ。ただ、ニグロ・リーグの大投手サッチェル・ページだけが、彼と比較される存在であるといえる。

1904年5月5日に彼は、三振8、内野ゴロ9、フライ10で27人の打者27人を打ち取った。これは、本塁との距離が現在と同じ60フィートになってから最初の快挙であった。

それから、シベリア出兵の解説なども、短くし過ぎてわかりづらくなってしまいました。元の原稿を掲載します。

タテ172 シベリア 

1917年の10月革命で実権を握ったボリシェヴィキは、各地にソビエト(労農政府)を設立するとともに、11月にはドイツとの停戦を宣言する。これに対して、英仏は革命への干渉を指向し、日米両軍によるシベリア鉄道占領を提案するにいたった。ヨーロッパ西部ではドイツとの間に激戦が続けられており、ロシアにまでは手がまわらなかったのである。日本も革命の波及を恐れるとともに満州の権益を確保するために、出兵を企図し、1919年1月にはイギリスと競ってウラジオストックに軍艦を派遣する。そして、8月になると日本は、チェコスロバキア軍救出を名目に、アメリカとの共同出兵を決める。チェコ軍は民族独立のためにドイツ・オーストリア軍を離脱してロシア軍に加わっていたのだが、対独戦を継続するためにシベリア経由で帰国しようとしていて、ボリシェヴィキ軍に囲まれ戦闘状態になっていたのであった。この派兵は1万2000人に兵力を限定して出兵することになっていたが、参謀本部はアメリカの同意を得ずに独断で兵力を増強、7万人を超える軍隊を冬のシベリアに展開することになる。このことは、当然アメリカの反発を買うことになった。日本軍は、反革命政権の樹立を支援するなど積極的に活動するが次第に反革命勢力は劣勢となり、尼港事件や間島虐殺事件などの悲劇を生んだだけに終わり、1922年撤兵する。なお、北樺太からの撤兵完了は1925年になった。現地の人々の意思を無視した外からの武力干渉が成功する時代ではなかったのである。しかし、この「敗戦」の教訓は生かされず、むしろ、北方進出の道が閉ざされたために、中国進出を強めていくことになる。

こんな調子で、解説の執筆は分量との戦いになりました。真理さんにも、ずいぶんけずってもらったのでした。