1984年(昭和59年)に「サンデー毎日」へのパズル連載が始まる。その他にも神奈川新聞に出たり、TBSのテレビにも出た。3人で始めた手作り雑誌だが、私の名前から女性3人だと思っていた、といってガッカリする記者もいた。そういうやつの取材は受けたくなかったが、寛容な私でもあった。

男3人で配本のエリアを決めた。大体夜中の11時過ぎまで回っていた。いちばん遅くまで営業している書店がその日の配本のトリだ。夜中に行くとリラックスしているのか、余計なことまで聞ける。

浜田山S書店のAさんは、夜なのにいつも威勢がいいなと思っていたら昼間は魚屋をやっていた。

「直はめんどくさいんだろう?」

「いいえそんなことはないですよ」

「じゃあ、おいてみようか」で取り引き開始である。

10坪あるかないかの店なのに、ある日突然、パズルフェアをやろう、と言って、入ってすぐの1m四方を全部ニコリの本でうめてくれた。1カ月で3割も売れなかったけれど、新鮮な書店をつかまえた気がした。ここは読者からのハガキで、家に近いこのお店にもおいてくださいとあり、配本ルートの線上だったので訪ねたのだった。

そのトナリ、三鷹台のY書房には深夜0時までに入ればいい。そのときは閉店間際であせって納品し、クルマに戻ったらキーを差したままロックしていた。スペアキーもない。あたりは真っ暗、月が笑っている。引き返し、太った店の主人に再び会い、JAFを呼んでもらった。待っている間、世間話をしているとなんとご主人、昼間は肉屋だって。人は外見で判断していいのだと思った。JAFが来て、黙ってろというので黙ったまま横に突っ立っていると、自分の登録証を見せ、タダでドアを開けさせた。私が呼ぶと非会員なので金をとられるのだ。次の日、菓子折りを持ってお礼に行き、次の週、私もJAFに入った。

冬休みは売れるからと、編集、制作、配本までを12月中旬には完了させるスケジュールを組むのだが、この年も31日まで配本した。ドタバタの不定期は1986年まで続いてしまう。私の大晦日配本は茅ヶ崎の3件の書店だった。H書店のおかみさんは「去年も大晦日に来たんじゃなあい? あんたたちよく働くわねえ」と半ばあきれ顔で新刊を受け取り、すぐに、山積みになっていた他誌をどけてニコリをおいてくれた。