1989年に小田急線「代々木上原」駅から3分のマンションに引っ越す。参宮橋から2駅しか離れていないので引っ越しはラクだった。2LDKの立派なマンションの1階で、一部屋はまるまる空くからビリヤード台でもおくか、と移ったら何のことはない、いっぺんにうまってしまった。

このころに地方発送と在庫置き場を練馬区の梱包会社に委託した。しかし都内の配本はこちらで行うのでバケツリレーはまだ続く。

出版点数も増えてきた。新聞、週刊誌、社内報などへのパズル提供も増えていった。この代々木上原時代の4年間に編集制作スタッフを3人いれている。そのときは思い悩んでの決断だったが、今考えると自然増だったのだろうか。

この時期に第四次パズルブームが起きた。6誌くらいだったパズル雑誌が24誌にもなって書店にはパズル雑誌のコーナーができてしまった。このときもニコリのパズル本はプレゼントマガジンではないので、違う場所においてくれる書店が多かった。

池袋の旭屋は理工書売り場、新宿の紀伊国屋本店は実用書売り場ってな具合だ。ニコリはニコリであり、書店もそう思ってくれた。

この地では飲み屋「喰い道楽」と「やまがた」の大将にお世話になった。「やまがた」はカウンターとテーブルの向こうに6人用の座敷があり、客が来ても大将の「いいからいいから、ずっと書いていいよ」の声に甘えて、奧の座敷で仕事をしていた。

パズル通信「ニコリ」は「クロスビー」を吸収してやっと隔月刊になる。

1993年(平成5年)に笹塚に引っ越す。初めてのオフィスビル移転であった。ここでは役割分担がはっきりしていき、ここでの4年間では2人が加わった。飲み屋は事務所から50mの「藤しろ」で、お母さんには年に150日くらい会っていたか。

1997年(平成9年)に浅草橋に引っ越す。渋谷区に12年いて、手狭だからと近辺の物件を探したがどうも似合った物件がない。そんなときに知り合いの不動産屋に言ったら下町に1本、ビル(7階建て)を持っていて、2階から6階まで空いているという。そのチラシをFAXしてもらい、その場で決めてしまった。現地にも行かずに。社員全員が口をぽかんと開けたままだった。

パズル通信「ニコリ」を隔月刊から「夢の月刊」誌にしたら大失敗して、15カ月で現在の季刊に戻した。ま、いろいろやってみるもんである。

現在は総勢16人の少数精鋭軍団である。パズルを好きな人だけに知られて、他の人には知られなくていい。パズルと言ったら「ジグソーパズル」しか浮かばない人にはニコリのペンシルパズルを一度遊んで欲しい。そのくらいか。

「好きなことを仕事にしなさい。一生働かなくて済むから」と孔子が言っていたそうな。名言である。