準備号をつくるにあたっての、何から何まで自分たちでやった。編集、パズル制作、レイアウト、デザイン。オフセット印刷の下行程であるフィルム焼き、面付けまでやった。あとは印刷機にかけるだけだ。
暇なときに刷ってね、と同僚に渡したのだが、刷り上がったのは2カ月後だったか。新人の腕試しに刷られた創刊準備号の表紙はピンク色でムラがあり、最初と最後ではサクラ色と朱色ほどの差があった。
印刷代の請求書はサラリーマンとしての私が書いた。
45000円。
3人で15000円ずつ出して払った。
この500部を見たとき、後ろからポンと押されたような気がした。
なにかがふっきれ、なにかが重くのしかかってきたようだった。
あれ? 定価をいれるのを忘れていた。
結局バラまこう、宣伝のつもりだ、と友人知人に配った。発行所は樹村の自宅、発行所名は「魔法塵」とした。なんとも恥ずかしい「パズルの雑誌」の反応は少しあって、半分うれしかった。半分というのは、応募ハガキのほとんどが3人の誰かが知っている名前だったから。それでも創刊号をつくる元気の素になった。
そしてそして、事件が起きる。
ある日あるとき、梅田(大阪)のキディランドから電話がかかってきたのだ。
「おかせてくれませんか。売れますよ、いくらにしましょう、100円でいいですかね」
いきなりのありがたさ。残りは100部くらいしかなかったので、100部を送り、1カ月足らずで完売した。「増刷」なんていう単語はまったく頭になく、創刊号を待ってもらうことにした。
1980年春のことだった。
創刊準備号は梅田のキディランドでしか売っていない。
チマタではルービックキューブが大流行していたのだった。